今までは自分の作った本を読んでほしかった。
自分の文章を読んでもらうことが、文章を書く目的だった。
でもそれだと厳しいなって最近思ってきた。
文章を読んでもらう目的って、結局褒められたいだから。
自分の場合、褒められたいとか評価されたいが目的になってやってることって、今まであまりうまくいった試しがない。
ライターとか編集の仕事をしていたときは、まずお金をもらうがあった。
褒められたいも多少あったけど、それは最優先じゃなかったからやれていた。
だけど、ライターとか編集の仕事を辞めちゃったら、
自分の本を買ってほしい、褒められたいがすごく表に来るようになった。
でも、本っておもしろいからとか、何かの役に立つから読むんであって、誰かを褒めるために読むわけじゃない。
「推し」なら応援することが目的だけど、よっぽど売れっ子でもない限り、推すためだけにその人の本を読むってないだろう。
自分は誰かに「推され」たかったわけだ。
自分の壮大な勘違いにひ~ってなった。
それで、ちょっと考え方を変えようと思った。
今までなんとなく「文章を手段にする」って、広告のコピーとか、誰が書いても同じになる情報記事のようなイメージだった。
大事なのは商品や情報の方で、文章はそれを伝えるための手段というイメージ。
これまでは作品そのものを作ることが目的だった。
だから文章を読んでほしかったし、褒められたかった。
でも、作品の中に込めたメッセージだったり、思いを伝えるための手段として、文章があるって考えてみるとどうだろうか。
そしたら、「私を推して」って感じじゃなく、「この中にいいこととかおもしろいことが書いてあるから、それを読んでみてください」みたいな感じで一歩引いて取り組めるんじゃないか。
本やブログの記事は自分が作った無形のサービスで、文章はそれを伝えるための手段って思えば、文章が読まれないとか本が買ってもらえなくて凹んだり、評価に一喜一憂することも減るんじゃないかと思う。
だって、今大根がいるのに、ニンジンに見向きもしないのは、ニンジンであることが悪いんじゃなくて、お客さんのニーズに合わないってことだから。
今まで記事を売ったり、課金することに抵抗があったのも、文章が目的だったからだ。ただ文章を書いて読んでほしくて、それを通じて何がしたいかがなかった。
文章が目的だったから、いろんな文章のおもしろさに負けてはいけないとか、もっと上手じゃないととか、あらゆる文章と比べて、そんなふうに思ってたんだと思う。
でも文章が手段だとしたら、ニーズに合う合わないで判断できるからちょっとマシになるかもしれない。
結局私は、文章を読んでほしい割に、どっかで自分の文章なんかって、思ってたことに気づいた。
自分の文章がいいって言いきれなくて、自信がなくて、だから「推して」もらいたかったんだな。
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文章を目的にするか手段にするか
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