ネット友だちの森さんの日記の「文章が上手いという呪い」っていう文が面白かった。
もし本当に売れたい、たくさんの人に読まれたいというなら、①目利きの人の目に引っかかるようにする、もしくは②目利きでないバカにも届くようにする。どちらかしかない。それ相応の、文章とは別のところでの努力がいるんです。
でもそんなことなんでしたいんですか? 文章でメシを食っていきたい、とかならわかるんですけど。
私の場合、最初文章を仕事にしたいって思ったときに、小説家とかコラムニストとかになるのは無理だから、出版業界に潜り込んで、そこから編集者の知り合いを作って、なんでもいいから雑誌とかに文章を載せられるようになれたらいいなと思った。
つまり、目利きの近くに行こうと思ったわけだ。ある程度この戦略はうまくいって、ライターになれた。
けど、これは私のやりたいことじゃないって気づいてから、面白くなくなった。
多分、森さんの書いてた、
本当はこじらせてるのは文章なのではなく「私を私自身をおもしろいと思ってもらいたい」「認めてもらいたい」という感情なんじゃないかなあ。
ていう部分を、うまく処理できなかったからだと思う。
正直、文章で自分のことを認めてもらうっていうのは、とてもハードルが高いと思う。
文は人の思考が書かれた物だから、合う合わないがある。
認めてもらうなら、作品数を増やして間口を広げるか、読者を増やして自分を評価してくれる人を探すか、たくさんの人の共通言語となっているものについて書くか、求めている人がいる情報を出す方がいい。
「評価されたい」と「書きたいことを書きたい」は、方向が違うのに、書きたいことを書いて評価されたいって思ってたってうまくいくはずがない。それならどっちかを諦めた方がいい。
何年か自主制作でやってみて、だいたい販売数が予測できるようになってきた。
それが難しかった頃は自主制作に夢見て一発逆転を夢想したりした。
自分の場合は、現実的な落としどころがわからなくてこじらせていた。
試しに2、3冊何か作ったり、イベントに出たり、賞に応募したりしていたら、だんだん落としどころがわかってきて、無闇に評価されたいとも思わなってきた。
別に評価されなくても楽しければ続いて、続けていけたらそれなりに見つけてくれる人がいるから、そういう人を支えにやってけばいいと思えるようになって、少し楽になった。
そうやって手を動かしていたら、いずれ文章が上手いという呪いも解けるんじゃないだろうか。