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Channel: こけし日記
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規律と訓練

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先日あるライターの方にスポーツぎらいについてのインタビューを受けた。

高校で体育会系の部活に入り何を血迷ったか大学でも入った。自分の人生で長らく不可解な行動だった。

話していて、スポーツが「失敗しても許される場」という話題になったときに、自分にとって、部活は何かに熱中したり青春ぽいことの代償行為だったのではないかと気づいた。
大学で本当はやりたかったクリエイティブなことは、失敗したり、うまくできなかったり、やってみて自分の実力を知るのが嫌だった。
また、恋愛や友人関係は人格と個性が試されるから、そこで失敗したら全人格を否定されたように感じて立ち直れないかもしれないから怖かった。

けど、部活なら練習に出て、言われたことをとりあえずこなしていれば、自分からやめるといわない限りやめさせられることはない。また、入ってしまえば、指導や上下関係が厳しい半面、面倒見もよく、後輩という理由でかまってももらえ、居場所になる。
当時は今と違ってインターネットもほとんど使わず、田舎から出てきた自分が人とつながれるのは学校、部活、バイト、恋愛といったリアルな場しかなく、そこで失敗したら終わりという気持ちが強かった。

そんなわたしにとって部活は、そんなにその競技のことを好きでもないし心底やりたいことじゃないからこそ、安心して失敗でき、失敗しても傷つかない場として、ちょうどよかったのだと思う。

もう一つ部活をやった動機は「自分を鍛えたい」だった。

大した挫折もせず高校まで上がったが、なんとなく自分はそのままではやばいのではないかと思っていた。
心の中では世の中を舐めているのに、気が弱く、ちょっと人に強く出られると言うことを聞いてしまったり、言い返せなかったりする。こんなことでは世の中でやっていけないと思っていた。

その気持ちはどちらかというと意識の高さよりかは、不安から来るものだったと思う。
当時は不況で、19歳のときに小泉政権が発足し、世の中がどんどん新自由主義的な風潮に覆われていった。その中で社会は弱肉強食みたいなイメージを持つようになり、それに自分を合わせなければならないと思うようになっていた。
きっと実力主義で即戦力を求められる場では自分のような甘えた性格の人間はやっていけない。だから精神を鍛えてその時に備えよう、そんな気持ちが奥底にあったように思う。

ところで、ミシェル・フーコーは近代の権力の特徴を、規律・訓練により、権力者の目を内面化して自主的に統治することだと言っていた。
たいていこの概念は現代社会への批判といった文脈で使われるのだが、自分にとっては、規律・訓練もされずに世間に出ていっていいのかという不安があった。
自由な個人が自主的に自律的に行動するのがよしというのは近代の人間の理想像だろうし、大学でもそういう人間像が理想的とされていた。
自分もそういう集団や個人に憧れがある。しかし、実際自分が取った行動は、抵抗や社会を改良することではなく、社会に合わせることだった。

まったく自分に合わない体育会系部活に入り、大学時代の貴重な4年を無駄にしたことを長年後悔していた。
しかし、インタビューを受けてみて、自分の考えが変わっていることに気づいた。
というのも、意外とこの規律と訓練の経験が社会生活において役に立っていることが多かったからだ。
部員が少なかったため、本来の自分には荷が重いはずの部のマネンジメントをするという役が回ってきた。
かなりつらかったが、やはりそこは部活なので先輩として立ててもらえたし、そうなるとやらなければならない。まさに、役が人を作る状況だった。
それに部活というのは会社に似ていて、ものすごいへまをしない限りは外されない。頼りないとか、なんだかなと思われていたと思うが、それでもなんとか1年やりきった。


今思えば、編集者時代はその部活で経験したこのマネンジメントスキルにずいぶんと助けられた。これがなければ私はもっと多くのミスを連発し、仕事を途中で放り投げていたかもしれない。それに、体育会系というのは頭で考える前に口と行動が先に出るよう仕込まれる場なので、すぐ「でも」と屁理屈を言い、上の人間ににらまれたり、目をつけられやすかった自分にとって、何も考えずに「はいわかりました」が出るようになって、社会で生きやすくなったと思う。

今の時代は、規律・訓練されなくてもものを言ったり書いたりできるようになったし、社会に影響力をもてるようになった。ときどき、それが果たして本当にいいことなのだろうか、と思うこともある。
こういうことを言うとすぐ老害とか体制側の人間だとか、強い人間の言いぐさだみたいなことを言われそうだ。当然だがもちろん自分はいきすぎた管理教育には反対だし、それで苦しんでいる人に対しては弱いとか言うつもりもない。
しかし、自分にとっては社会に出る上で、ある程度の規律・訓練が必要であり、部活がちょうどいい鍛錬の場としてうまくはまったように思う。
もちろん、規律・訓練のやりすぎでほかの人に抑圧的になったり、自分が合わせすぎて苦しくなってしまったりと、よくない面もあったが。

 

何度も言うが、体育会系は本当に向いてなかったし、自分はかなり無理をしていた。
その競技はもう二度とやりたくないし、もしもう一度大学生になれるとしても絶対やらない。
もっと早く本当にやりたかった芸術や文筆活動を始めていたらと何度も後悔し、そのときの自分を責めたこともあった。けど、いつまでもそのときの自分を責めていたら、今の自分も責めていることになる。なぜなら、その時の自分の選択が今の自分をつくっているからだ。

 

自分が社会でがんばろうとしたやり方は見当違いで滑稽だったけど、いい加減その時の自分を認めてやってもいいんじゃないか。インタビューを受けて、20年を経てやっとそう思えるようになっていることに気づいた。


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