バンクーバーに住んでいるのに、近所の図書館の日本映画の旧作コーナーが充実していて、最近は昔の日本映画ばかり見ている。
今村昌平というとカンヌ取った『うなぎ』のイメージだけど、たまたま最初に見た『人間蒸発』というドキュメンタリー映画がおもしろくてはまった。
『人間蒸発』
失踪して連絡が取れなくなることを「蒸発」というが、これはこの映画が発端となって生まれた言葉らしい。
主人公となる女性が、消えた婚約者を探すという話で、婚約者だった男の関係者を訪ね歩くうちに、男の会社の金の使い込みや過去の女関係がどんどん出て来る。
しかし肝心の手がかりは見つからない。
行き詰まった監督は主人公の女性にフォーカスするうちに、後見人役の俳優に主人公の女性が思いを寄せるようになったり、主人公姉妹の確執が明らかになったりする。
姉妹の互いの証言の食い違い、姉の証言を覆す証言をする人物、だれも自分の言うことが真実だと言ってきかず、藪の中状態となり、どちらも引っ込みが着かなくなった登場人物に対して、監督自身が出てきて、これはフィクションなんですからと無理くり収拾させようとする。
もはやメタ的な、ドキュメンタリーとは何かみたいな視点になっていて、無理やり終わらせた感じはあるけど、どんどん関係者にインタビューを重ね、新事実が明らかになっていく様子はスリリングだし、女性が自分はこの映画の主演女優であるという自覚が出てきて、途中から主客転倒して、撮られる側だった主人公が映画を侵食し始めるような部分も面白い。
『からゆきさん』
『からゆきさん』は、戦前に東南アジアに売られて、売春に携わったからゆきさんと呼ばれた女性達がおり、それを追ったドキュメンタリー映画だ。
主人公の女性はは現地で連れ子のあるインド人男性と結婚し、未亡人となるが、家を売ったりしてお金を工面して連れ子を大学までやる。
しかし、住むとことがなくなり、今はインド人の連れ子の奥さんの実家の世話になっている。
給料の出ない家政婦代わりの扱いで、連れ子の奥さんの実家の人たちから辛く当たられているけど、帰りたいという思いはない。
それをお金がないせいにしているが、日本での調査をすすめるうちに、彼女が被差別部落の出身であったことがわかり、事態が急転する。
その展開のドラマチックさにまず驚いた。
それから、その主人公の女性が我慢強く、求めるよりも人に与えようとする人、人間の高潔さみたいなものを持った人であることに打たれた。
以前、別のからゆきさんについてのノンフィクションである、山崎朋子の『サンダカン八番娼館』や森崎和江の『からゆきさん』を読んだことがあった。
これら本に出て来る女性も、自らがいちばん貧しい境遇であるにも関わらず自分よりも人のことを思いやり、あたたかみを忘れない人物だった。
両者のこの人間の高潔さがどこから来る物なのかがすごく不思議だった。
でも、そういう人たちがもつ思いやりの心やあたたかみは尊く美しいものに見える。一方で、それが貧しさや差別から来るあきらめの気持ちだったのかもしれないと思うと、胸がふさがるような気持ちになる。
『未帰還兵を追って』『無法松故郷に帰る』
『未帰還兵を追って』では、ドキュメンタリーのままならなさも見てとれる。
なかなか追っている未帰還兵を見つけることはできない。途中から取材方針を変えて、現地で結婚して帰らない人に会いに行く。そこで、彼が帰らない理由が、イスラム教徒になったからだとわかる。
彼は現地の八幡製鉄所で働いている。日本人の上司にお前はなんでお祈りをするのか、お祈りをしたら仕事が進まないではないか、今度お祈りをしているところを見つけたらクビだと宣告される。
それでも彼はお祈りをやめられず、隠れてお祈りをしている。彼のイスラム教への信心はちょっと滑稽さを感じる。でも、その信仰の真摯さには何か心を打たれるものがある。
この映画はマレーシア編とタイ編があって、残念ながらマレーシア編しか見られていない。しかし、タイ編は『無法松故郷に帰る』というタイトルでさらに続編が作られている。
タイから主人公が一次帰国して、親族に会いに行く話で、妹、兄、別れた恋人、元上官や戦友といろんな人に会いに行く。特にインパクトがあるのは兄で、夫と別れたか死別で連れ子がいて実家に戻っていた妹に折檻をするので、妹は逃げて別の家に住んでいる。兄はそれまで8回だか6回だかとにかくめちゃめちゃ結婚回数が多く、今の奥さんは逃げて、8歳の娘だけが手元に残っている。
主人公は妹と会っているときは血気さかんな感じだけど、その強烈な兄と会うと借りてきた猫みたいにおとなしくなる。妹の折檻をやめるようにと言うけど、何を生意気なと言って聞かない。そして、長崎の原爆でやられて、親族も親兄弟もほとんど残っておらず、墓を建てたり供養してきたのは自分だと、主人公の弟のことを責める。
後半は復員できなかった理由を追求しに行く。ある同郷の人の証言で、死んだことになっていたらしい。兄が恩給をもらうために、ちゃんと確かめなかったんじゃないか疑惑も浮上してきて、『人間蒸発』のときのように藪の中みたいな展開になる。
最後、主人公は結局タイに帰ってしまう。
主人公との再会を泣いて喜んだ上官の反応と対比的だった。
日本のために戦ったのに居場所はない、というのが何とも言えない後味の悪い結末だったけど、主人公はそれに対して不満を言うとか、国を相手に訴えるとかもなく、淡々とタイで農民に戻る。
「未帰還兵」という、本や歴史でしか知らなかった人が生身の肉体をもってあらわれていること、そのたたずまい、仕草や言葉遣いが、たくさんのことを語っている。
おしまい
ドキュメンタリーというと、教育的、政治的であるか覗き見趣味の作品が多いと思っていたのだけど、今村監督のはあまりそういうところがなかった。
どうも彼の経歴を調べると、映画監督が撮影所からクビになったりやめたりして、プロダクションを作り始めた頃の走りの監督で、後世を育てようと日本映画学校という専門学校を作ったりしたそうだ。
伝説ドキュメンタリーみたいに言われる原一男の『ゆきゆきて神軍』ももとは今村監督の企画だったらしい。
ドキュメンタリー映画の教条主義的で、主張ばっかりあるのに、画面がぐらぐらして録音が聞き取れず何言ってるのかさっぱりで、展開が途中でよくわからなくなるという感じが好きでなかったのだが、今村監督のは画面がばしっと決まってて、構成もしっかりしてて(『人間蒸発』はこじつけ感あったけど)主義主張が先行していないで、取材結果にもとづいて作っている感じで、非常にはっきりした展開で見やすくて、劇映画とドキュメンタリーの両方のいいとこ取りという感じがしたので、はまったのだと思う。
日本映画学校はもうなくなってしまったらしい。
日本映画学校の理事をしていて、今村監督の助監督とか撮影助手とかをしていた武重さんという人がたくさん撮影裏話を書き残しており、それと照らし合わせながら映画を見れるのもいい。
http://www.cinemanest.com/imamura/home.html
特に、『人間蒸発』の主人公だった早川さんに会いに行った回は非常に面白い。映画は終わって、ひとつの作品になる。でも人生はその後も続く。
その後の人生を生きたかが描かれていてそれがすごい面白い。
今村監督の撮り方は、例えば『人間蒸発』の主演俳優との疑似恋愛的な部分は、おそらく今村監督がそうなるようにしむけた部分もあるんだろうとか、盗み撮りとか人の人生をコマに使うようなやり口もあって、ちょっと考えさせられる部分もある。
しかし、そういう撮り方をするから善悪を超えた人間の生々しさがあぶり出るのかもしれない。
現実の方が作り物よりも不可思議だという魅力と迫力があってどはまりした。
日本でまたかかる機会があれば見てみたい。