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趣味で何が悪いの? 山崎明子『「ものづくり」のジェンダー格差』

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山崎明子さんの『「ものづくり」のジェンダー格差』を読みました。



以前『週刊 読書人』で書評を書きましたが、書き足りなかったのでこちらでも感想を書いておきます。

 

 

この本は家事であって家事でないと言われた手芸を、「フェミナイズされた労働」という視点から描く画期作です。
ちなみにフェミナイズというのは、社会のあらゆるものはジェンダー化されており、男性的と女性的に分けられる、そのうち女性化されたものという意味です。
創造的な活動はフェミナイズされることで、主婦だったり、低賃金労働に従事させられたり、断片的な時間や時限的な期間で働かされたりし、その現場は「やりがい」や「楽しさ」という言葉で満ちているということを指摘しています。
前回の『クリエイティブであれ』と同様の指摘もあり、また、読みながらこれまで触れたいろいろな取材現場や本のことを思い出しました。

 

kokeshiwabuki.hatenablog.com


裁縫は今でも家事の一部

きものについての著作が多い幸田文の随筆や小説を読むと、季節に合わせて着物を仕立てたり、成長に応じて丈を伸ばしたりと、裁縫はかつて家事の中で大きな位置を占めていたことに驚きます。そしてそこには裁縫は女性がやるものというジェンダー規範が存在していたようでした。

私は現在男性と家事という、男性の著名人に家事についての経験を語ってもらうというインタビュー連載をしています。そこで、家庭科の思い出についても伺っているのだが、多くのインタビュイーは裁縫は家庭科でやったきりと答えます。

一方、女性の場合は、子どもが生まれて保育園や学校でカバンを作ったり、学用品に名札をつけたりする必要があって、否が応でも手芸とかかわらざるを得ないのと対照的だと感じました。

資本主義の発達や衣服の簡素化、服が安くなったことにより、裁縫は手芸という余暇となったと書かれていましたが、そのような話を聞くと、やはり今でも裁縫は家事の一部であると感じます。そして、それはしなければならないことなのに、趣味のような家事とみなされ、やらなくてもいいような家事として軽視されているのではないかと感じました。


弱くするものとしての手芸/強くするものとしての手芸


手芸が女がやるものという規範は、手芸を一段下のものとしてみなすことにつながり、一人前の労働とはみなされない。それを著者は「フェミナイズ」と呼んでいます。

第四章の「祈りを届ける」では千人針をする女性像の分析から、手芸する女性を「縫う女」として見たいという欲望を指摘しています。「手芸する女」像は女性を弱いものと位置づけ、その像自体が男は戦い、女は祈るというジェンダーシステムに通じていると指摘します。

それを読んで思い出したのがディストピア小説と言われるマーガレット・アトウッド『侍女の物語』でした。女性たちは本を読むことを禁じられており、その代わりに編み物やっていました。
また、南北戦争を扱った『風と共に去りぬ』でも、主人公のスカーレット・オハラは未亡人になっても他の男性とダンスをするような当時としても異例の女性だったと描かれていますが、南北戦争戦費調達のために刺繍をしてはバザーで売ったり、ホームスパンの衣服を作ったりと、当たり前のように手芸をしています。
まるで手芸をすることが女性としての証、あるいは女性をうちにとどめておいたり、弱くするための手段のように見えました。

その一方で、手芸は女性を強くするための手段としても使われます。終章では刺繍や手芸がアートや社会運動の場で抵抗の手段として使われていることも指摘しています。また、男性の手芸についても触れられています。


社会参加するための手芸


伝統工芸や「手作り作家」に女性が多く、まるで救世主のように扱われるということを指摘した第五章や、刑務所で伝統工芸が推奨されることを分析した第六章からは、手芸はときに押し付けられた規範である一方で、主体的に社会に参加するための手段にもなることがわかります。

本書には取り上げられていませんでしたが、障がい者福祉施設で伝統工芸が行われている話に通じると思いました。
私は10年ほど前に福祉施設でのものづくりについて取材したことがありますが、その際に障がい者の手仕事として手芸や伝統工芸が多く取り入れられていました。
作業所では子どもらが刺繍したり手織りした作品を、保護者(特に母親)や職員がカバンやポーチなどの商品に仕立てて販売していました。
また、鹿児島のしょうぶ学園の刺繍作品のようにそれが一つのアートとして流通していたり、デザイナーとコラボしてブランドのように流通している場合もあります。
現在では障がい者雇用も増えてきていますが、それが難しかった時代では手芸が社会に参加する手段として使われていたり、なかなか外とのつながりが作れない保護者(特に母親)にとって社会とつながる手段になっていたのが昔の女性の手芸や刑務所での工芸品製作と似ている思いました。

「好き」は「仕事」になるのか


終章の一部で書かれていたハンドメイドブームを扱った「『好き』を『仕事』にする!」では、SNSと販売サイトにより、自分の作ったものを自分で売れるようになり、「作家さん」と呼ばれることでハンドメイドがブームになっているが、実際それで生活できている人は少ないということが述べられています。

ハンドメイド作家になるためのノウハウ本に書かれた仕事にするにはミッションが必要という文章に対して、著者は

フェミナイズされた仕事は稼げない、フェミナイズされた人々は稼げない仕事を推奨される、そしてそれを喜びをもって引き受けざるを得ない、「働き方改革」を進めんとするこの国で、この循環は断ち切れたのだろうか。(271ページ)

といいます。


2000年代にアメリカで専業主婦ブームが起こり、手作り品をネットで売って自分の好きなことを仕事にする女性の実態を描いた『ハウスワイフ2・0』でも、それで固定収入が得られるわけではないし、自立のためには自分でお金を稼ぐことが必要だと書かれていたことを思い出しました。

好きなこと、得意なことを仕事にしたいという欲望を止めることはできません。
このような欲望を「楽したいだけ」、「遊び」とみなして趣味と切り捨てるのは簡単でしょう。しかし、80年代のやまだ紫の漫画『しんきらり』で、専業主婦として子育てに専念していた主婦が、デパートのブディックの一角を借りて手作り人形を売り始める姿を読むと、家事やパートの合間にうちで隙間時間でできる、自分の好きや得意を生かしたことを仕事にしたいという切実さを感じます。

その切実さを生かせる場所が社会には少ないのかもしれず、またそれがすべてお金稼ぎにつなげないといけない雰囲気もあって、息苦しさを感じます。

書くこともフェミナイズ化されている?

最後に指摘したいのは、ハンドメイドブームは今のライターブームや自主制作本ブームと酷似している点です。
出版社に入ったり、賞に応募しなくてもいきなりネットで文章が発表できるようになり、SNSを通じた承認、課金でお金が稼げるようになり、自主制作本が安価に作れ、それを売るイベントや本屋も増え、そこに行けば「作家さん」「ライターさん」と呼ばれることが今のライターブームや自主制作本ブームを支えています。
そして、その先におそらく書く人が求めているのは、得意なこと好きなことを書いて課金や作家やライターで専業で食べていくこと・・・。

しかし、そんなことが可能なのは一握りの人です。それができないからといってダメなわけではない。そしていまや出版社から本を出し、講演をしているような外からは本業とみなされるような作家や文筆家ですら多くの場合かけもちしているということです。
私もまたその一員の一人です。

それを以前は自分だけはこのサイクルから抜け出たい、あるいは、自分が実力がないからそうしないといけないんだと思っていました。しかし、この本を読んだことで書くこともまたフェミナイズ化されているのではないのかと感じました。そしてこれは自分だけの問題ではなく、社会の話だと考えるようになりました。

 

社会が従来のような工業主体の産業からソフトウェアやサービス業が産業の中心となり、その中でクリエイティブ産業も発展してきた。教育機関ができ、志望者も増えますが、それを吸収するだけの働く場は少なく、期間限定な仕事も多い。
また、工場労働のような時間が決まっていてその時間だけ働けばいいというものではなく、不規則で24時間いつでも対応しますというような働き方になってしまう。また、仕事では感情や容姿、人格も動員しなければならない。しかも上からの押し付けでなく、「好き」「夢」「得意」といった言葉で自分が主体的に選びとり、自らその中に参入するような形で動員させられる。自分の欲望で参加しているように感じるため、労働現場に参入できないこと、労働現場の問題も自分の才能やうまくやるセンスがないせいに矮小化されてしまう。

そのからくりには気づかなくてもうまくいった人の、好きなことをやってきただけとか、得意を生かしてといった言葉が流通し、このような指摘は才能のないやつのひがみや言い訳として切り捨てられてしまう。
そんな構造があるように感じました。

私にとって書くことは、以前は依頼されたものを書いて納めてお金をもらうことが目的、つまり書くことは稼ぐ手段でした。そして、その後それが嫌になって、この本で書かれているような数多のハンドメイド作家のように好きなことを書いてお金をもらいたいという方向に振ろうとしました。
しかし、今はその方向にも疑問を抱いています。

以前ある方のトークイベントに行ったときに、自分で出版社から買い取って全国でトークイベントをして売り歩いているという話をしていました。トークと本の売り上げで宿代と足代が出なくて赤が出ることもあるけど、やっているという話を聞いて、自分には無理だなと思いました。
自分もそうしないとと思ってがんばっていた時期もありますが、やっぱりそれはそれですごくマッチョな考え方だし、結局著者にしわ寄せがいっているから変なシステムだと思います。それに家庭や経済的事情でそれができない著者も多くいます。

これは普通の主張だと想うのですが、それが努力ができない態度というならそうかもしれません。けど、それって結局上記で書いた、構造の問題を個人の努力に矮小化しているだけなんじゃないかと思います。

自分の好きなことを書きたい、それを本にして売りたい、を目指したい。でも疲弊するような売り方は嫌だ。かといって、狭義のZINE(今の文フリとか独立系の本屋で売ってるようなのじゃなくて、野中モモさんとか村上潔さんが言ってるような、営利目的じゃない自分の思いとかを発信するために作るようなもの)のように、全くの非営利でやりたいという思いもあまりありません。


ところで、ピストン藤井さんが里山社のzineで書いていた「見つめていたい。シラフで。」という文章を読んだときに「コロナは人をシラフにした」という文を見て、はっとしました。

そこには、コロナ禍で薬局の店長をしながら富山でライターをしていた藤井さんが、趣味の飲み歩きができなくなって酒を飲まなくなったことで、シラフになった経験がつづられています。
このシラフは文字通り酒から醒める以外に、それまでの社会のあり方に酔っていた自分から醒めるの意味も含まれていると思います。そして、藤井さんは日々自分ではどうにもならないことが起こる反動なのか、

 

自分で舵が取れそうなものに関しては、できるだけコントロールしたいと願うようになった。(30ページ)

 

と書きます。

私もいったん文章を書く仕事から離れたことで、「シラフ」になり、好きなことを書いて仕事にするのにどこかで無理があると気づきました。そして、無理に広げるのではなく、もっと自分でコントロールできる範囲だけに本を売ろうと思うようになりました。

ものづくりの価値を取り戻すために

ものづくりの価値はいまや新自由主義にからめとられています。
新自由主義の恐ろしいところは、人間のもてる資源のすべてを経済のために動員し、成功するも失敗するも自己責任で、すべてが個人の責任に矮小化され、その一方で経済の動きをコントロールできない。そして、自己責任という考え方は内面化されているため、自分の責任でないことやコントロールできない状況に気づけないし批判することもできない点にあります。

しかし、あとがきからは、著者はそれでもものづくりの価値を信じているように感じられます。

グローバル化した現在の産業構造では、誰もが人の創造力を想う力や機会を奪われている。言説はそこにも加担している。(略)視覚表象も言説も、本当は私たちにイマジネーションを与え、ものづくりを意味あるものと理解させ、人の創造力をむやみに搾取することを回避するために機能させることもできるはずだ。(279~280ページ)


ここで思い出したのが山崎ナオコーラ『鞠子はすてきな役立たず』(『趣味で腹いっぱい』を改題)です。

 

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主人公の鞠子は「女性活躍」のご時世に、「主婦になりたい」と堂々と言って、趣味に邁進しています。一方の夫の小太郎は、高卒の銀行員で、「働かざるもの、食うべからず」がモットーの父親のもと、働くことが当たり前の環境で育ちます。
鞠子のやっている趣味は世間の役にも、鞠子のキャリアにも役に立たないことばかりですが、小太郎は鞠子と結婚したことで、生活に大きな変化が訪れます。

鞠子の趣味に向き合う態度は、作る過程を楽しむ、できたものを愛でる、人に見てもらって感想をもらう、他人と比べて評価をしないなど、好きなこと、得意なことで儲けるとか仕事にするとはかけはなれています。
趣味と言われて、「何が悪いの?」と開き直っているようなこの感じ。
「ものづくりの価値を取り戻す」ヒントはここにありそうです。

好きも得意も仕事にもお金にもしないで堂々と開き直ることは、私にはまだ難しいですが、それができたらもう少し書くことや本づくりも楽しめるものになるかもしれないと思いました。


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