海外生活半年を過ぎ、英語に慣れてきたと思っていた頃、
突如英語イヤイヤ期が訪れた。
紅葉シーズンを過ぎ、冬が始まっている
最初の3か月はがんばろうと思って、家でも毎日勉強をしたり、
積極的にカンバセーションクラブというおしゃべりをする集まりや
コミュニティセンターのイベントに顔を出していた。
そのおかげで町での買い物やレストランでの注文は
堂々とできるようになってきて、
テレビもニュースならなんとなくわかるようになってきた。
さらに学校に行ったりしているうちに、クラスメイトと会話したり、
先生の言っていることを理解できるようになった。
英語上達したかも?楽しいなー、なんて自信がついてきた頃、それは襲ってきた。
きっかけはささないなことだった。
電話の受け答えができなかったとか、ESLのクラスで授業中に
みんな同国人どうしでしゃべっていて話相手がいないとか、
英語での会話がうまく続かなかったとか。
英語で意思疎通がつたない分、相手の顔色を伺う気持ちがでてきて、
どんどんマイナス思考になった。
英語で会話したり英語環境が嫌という気持ちが大きくなり、
しばらく開き直って日本語の本を読んで日本語の映画を見ていた。
バンクーバーの市立図書館。日本語の本も置いている
英語が上達したと思っていたのは錯覚だったのだろうか。
なんとなくコミュニケーションできていると思っていたのは、
向こうがこちらに合わせてくれたり、目的や役割がはっきりしていて、
コミュニケーションしやすい環境だったからなのではないか。
たとえばレストランや買い物は役割が決まっている上、
目的もはっきりしているので、質問も明確で意思疎通ができる。
学校は同じレベルの人が集まっているから話しやすい。
ニュースだってわかりやすく伝えなければいけないから、聞き取りやすい。
でもコミュニケーションてそういうものじゃないだろうか。
伝えたいとか知りたいとか仲良くなりたいとか目的があって、
それを達成するために人と会話したりつながったりするのだ。
その姿勢がないと関わろうという気持ちがなくなる。
でも書いたけど、
コミュニケーションと言葉ができることは別だとうことに改めて気づいたら、
英語イヤイヤ期はおさまった。
バンクーバー国際映画祭では花と兵隊 の松林要樹監督最新作Reflectionを見た
学校の英語といちばん違うのは、試験に受かるためとか、
誰かと競い合うためが目的じゃないところだ。
そうすると、自分がなんのために英語をしゃべりたいのかとか、
英語で何をしたいのかを考えないといけない。
そして、そのために自分がしないといけないことを明確にしないといけない。
それは誰かの真似とかマニュアルやノウハウでは身に付かないものだ。
わたしの英語に対する考えも
英語がしゃべれる=流暢に文法的に正しくネイティブのように話せること
から、相手に伝わるように自分の言いたいことをきちんと伝えること、
に変わっていっている。
それは言葉だけ学んでも身に付かないものかもしれない。
英語イヤイヤ期を過ぎて、実は今のわたしに必要なものは、語学力とかよりも、
コミュニケーションに関するスキルなのかもしれないと思っている。
※バンクーバーの図書館では日本映画が充実していて、
黒澤明とか小津安二郎とか今までちゃんと見てないのを借りていた。
三船敏郎がかっこよすぎた。構成に無駄がなさすぎてすごい
お母さんが完全に悪者で、そこまで悪者扱いしなくてもいいんじゃないかと思った。
有馬稲子がかわいい
原節子をよってたかって結婚させる映画。
原節子が笠智衆と能を見てるシーンがよかった。
晩春と同じく岩下志麻をよってたかって結婚させる映画。
岸田今日子のバーで軍艦マーチ歌ってるシーンがよかった。