社会学者の打越正行さんが亡くなった。
2019年に打越さんが『ヤンキーと地元』を出したときに、取材した記事がある。
それがときどきSNSで回ってくる。
その文章を読んで、驚いた。
まるで他人が書いたみたいだ。
この6年の間に自分の生活は大きく変わってしまった。
私は編集の仕事を辞め、ライターを辞め、持っている別の資格で就職してフリーランスを辞めた。
自分がライターだったころに依頼を受けて書いた文章や、下請けで作った本を読んでみると、本当に自分が書いたり作ったりしたものだろうかと思ってしまう。
もうそのころの自分を今の自分と同一だとは思えない。
ライターとか、編集者をしていた自分は、もう前世だ。
ところで、私はしょっちゅう過去の自分に対して責めたり、後悔をしている。
どうしてあのときあれを選ばなかったんだろう、どうしてあんなことをしてしまったんだろうと、考えても詮のないことを延々と考え続けてしまう。
それは、過去の自分の選択の延長が今の自分につながっていると思っていたからだ。
今の自分の不満やもっとこうなれたんじゃないかという可能性を、過去の自分の行動のせいにしてしまう。
過去の自分と今の自分に同一性を感じて、過去の自分に対してなんであんな愚かなことを・・・と思ってあきれたり、恥ずかしくなったりして、くよくよしていた。
でも、過去の自分が前世の姿のように見えてから、その気持ちがなんだか変わってきた。
前世は他人なんだから、他人の行いを反省したり、恥じたり、悔いたりしてもしょうがない。
前世の行いを現世で悔いたり、自慢したりするのは意味がないことだ。それはもう終わったことだから。
それなら現世でこれから何ができるかに集中した方がいい。
こんな簡単なことに気づくまで、なんて回り道をしてきたんだろう。
話は変わるが、打越さんは研究者だったけど、その前に教育者でもあった。
私も今は分野は違うけど、教育の道にいる。
ライターとか編集をしていたときは、有名になりたいとか、たくさん売れたいとか、名前を残したいとか、そんなことばかりを思っていた。
でも、インターネットでさまざまな人から語られている、打越さんの人となりや逸話を読むと、そうじゃない生き方だってあるんだなって思った。
たくさん本を書いて、講演して、有名になるより前に、学生と顔を合わせて、授業をして、話して、食べて、遊んで。
それを繰り返して、小さく何かを人の心に積み重ねるような、そういう生き方があるんだなって。
打越さんのことを書いた自分の記事を読みながら、打越さんに「新しい道でがんばって」って言われてるみたいだと思った。
私はそれほど打越さんと親しかったわけじゃないけど、インターネットで愚痴っていたら、レスポンスをくれたりするようなあたたかなところが、打越さんにはあった。
これは私がネットで流れてきた、自分が書いた打越さんの記事を読んで抱いた、ただの感想だ。だから、打越さんから直接何かもらったって話じゃないのかもしれない。
でも、打越さんが亡くならなかったら、こんなふうに自分が書いたものと出会わなかっただろう。
打越さんに思わぬ置き土産をもらった。
過去の自分はもう前世だ。
もう、いちいち昔のことでくよくよしない。
新しい道でこれからがんばりたい。