教科書でしか見たことのない「原爆の図」をいつか生で見てみたいものだと思い、数年前に作った「やってみたいことリスト」にも書いた。
それが叶う機会はずっと先なのだろうと思っていたが、思いがけず早くそれが叶う機会が訪れた。
「原爆の図」があるのは埼玉にある丸木美術館だ。
たまたま出張で東京に行くことになり、調べてみると都内から2時間もあれば行けるようだ。せっかくだからこの機会に訪ねてみることにした。
池袋駅から東武東上線に乗って一時間半あまり。東松山という駅で降り、そこからバスで10分、丸木美術館前で下ろされた。畑の間に住宅がぽつりぽつりある。自家菜園には取りそびれて大きく育ったきゅうりやナスがそのまま垂れ下がり、さといもの葉が青々茂っている。ところどころに栗の木が植えられており、まだ実は青い。せみの声が響くのどかな農村地帯だ。
バスを降りてさらに歩いて15分、まだだろうかと思った頃に、道路の脇に看板が現れた。幹線道路から小道に入ってしばらく歩くと、タイルの張った青い体育館のような建物が現れた。
チケットを買い2階の展示室に上がる。開館直後に訪れたためまだ私だけだった。
原爆の図は十五部あるのだが、あいにく二部「火」は修理中、十五部「ながさき」は長崎にあるということだった。この美術館で実物を見て初めて知ったのだが、「原爆の図」は屏風絵だった。写真や教科書で見るのと印象が違うのが、生の迫力のせいかと思っていたけど、屏風として立てられているから、立体として迫ってくるという部分もあるのかもしれないと思った。
「原爆の図」は、1950年から82年までの間に制作されており、そのうち、八部の「救出」(1954年)まではほぼ連続して描かれている。丸木位里と丸木俊は直接被爆していないが、被爆後3日目から市内にいた親族の救援に入っている。被爆直後の惨状を見ていたため、初期の作品は見たことや聞いたことを伝えねばという鬼気迫るものがある。
その迫力が何に由来するのだろうと思ったが、写真だと一人一人の表情や体が折り重なっている部分がよく見えなかったのだが、生で見ると、一人一人の表情、仕草、体の部分が描き分けられているのがわかる。この一人一人に生があったのだということの重みに由来しているのかもしれない。怖いというふうに思わないのは、それが実際に起こったことであり、おどろおどろしく、怖がらせようとして描いているわけではないからだろう。
そして、こう言ってはなんなのだが美しい。一人一人の表情や身体などに注目してみると、とても絵が上手いし、全体の画面の構成にはぴんと張り詰めた緊張感がある。この緊張感に美しさを感じる。
火の中を逃げ惑って、水を求めて亡くなった人、竹藪のなかで誰にも看取られなく亡くなった人、勤労動員の学生たち、救援に入った人の姿、八部までは、自分が見てきたこと、体験したこと、聞いたことを元にした、鎮魂の意味合いが強い作品のように思える。
ところが、九部の「焼津」のあたりから、少しテイストが変わったと感じる。1955年、第五福竜丸がビキニ環礁での水爆実験の影響で被爆した。その影響で反核運動がおきるのだが、「原爆の図」は鎮魂から、反核、そして継承をテーマにしたものへと変わっていく。そして、最後が、「加害」についてだ。十三部「米兵捕虜の死」では、投獄されていた米兵捕虜が、投下直後に虐殺されていたという話をもとに描かれ、十四部「からす」では、朝鮮人の遺体はなかなか弔われることなく、野ざらしにされていたという話をもとに描かれたそうだ。丸木位里と丸木俊は、身近な人の鎮魂だけでなく、この絵によって、原爆の恐ろしさを伝え、あらゆる人の姿を描くことで、亡くなった人を供養しようとしたように思える。
この美術館には「原爆の図」のほかに、「アウシュビッツの図」「水俣の図」「南京大虐殺の図」「水俣・原発・三里塚」も収められている。丸木位里と丸木俊は原爆から、さらに自国の社会問題にも目を広げ、他国への被害や加害の歴史にも目を向けるようになった。
二人が描こうとしていたのは、人間性を破壊されることの恐ろしさや、それは人が起こしているということのように思う。戦争も公害も人間性を破壊する。
先日、『水俣曼荼羅』という映画を見たが、そのなかで水俣病は脳の中枢神経がやられるので、人間的な感覚だったり感情を制御する部分がダメージを受けることがあると言っていた。
戦争も人間性を破壊する。「原爆の図」では服が一瞬で焼けてみな裸で逃げ惑っている。よく考えたら、東京空襲の絵をや記録などを見ると、みんな服を着ている。裸で逃げるなんて恥ずかしかったに違いない。それから、原爆の体験談などでは、遺体を踏みつけて逃げたとか、大事な人を置いて逃げたといった証言が出てくる。本当なら、そんなことをしたくなかったはずだ。そして、遺体も黒焦げで誰が誰かわからなかったし、爆心地では骨すら残さなかった人も多くいた。生きた記録が残らないなんて、そんな悲惨なことがあるだろうか。
なお、遺骨のゆくえについては、『原爆供養塔』に詳しい。
また、殺す側にとってもそうだ。人間性を消さないと、相手を人じゃないと思わないと殺すことなんてできない。人間が人間でなくなることの恐ろしさ。そういうことを繰り返してはならないと思う。二人が生きていたら、今のウクライナの戦争やイスラエルによるパレスチナの攻撃をどのように描いただろうか。
見ている間じゅう、しんとした建物の中まで蝉の声が聞こえた。おそらく当時の広島でもこんなふうに蝉の声が聞こえていたのだろう。絵の中に入り込んでしまったような感覚に一瞬なった。
外に出ると、のどかな田園風景が広がっている。すぐ近くを流れるのは都幾川で、それが故郷の太田川に似ていることから、ここに居を構えたそうだ。絵のすさまじさからすると、こののどかさがありがたい。一人一人の顔はいつまでも目に焼き付いて離れない。
沖縄県の佐喜眞美術館には、「沖縄戦の図」があるそうだが、次はそれを見に行ってみたい。
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