ある雑誌の特集に文章が載った。一応文芸誌の棚においてあるから、文芸誌デビューだ。
他の人の文も読み比べ、自分の書いている文は果たしてエッセイなんだろうかと思った。情報をたくさん書きたいと思ってしまう。私のことよりその対象のことをたくさん書いたほうが役に立つと思ってしまう。説明のほうが好きだし、それにちょっと意見を書くくらいでいい。でもそれじゃ文学にならない。多分私のやりたいことは、文学じゃない。
ところで、その中にずっと気になっているけど読んだことがないある作家さんの文章もあって、初めて読んだ。案の定切り口が全然違った。
今まで読まなかったのは、正直避けていたという方が正しいかもしれない。その作家さんはコロナの間に出した自主制作本が売れて出版社から本になり、コロナ前までは会社員と掛け持ちしていたが、今は作家だけで生計を立てているそうだ。いいなあ!
これまで私は世間には需要がある、という文章を読んだ場合に、それを理解できない自分の感性が悪いのかとか、そういったことを書けない自分はだめなのかとか、そういう考え方を持てなかった自分のこれまでの人生を丸ごと否定することが多かった。その人の文章を読んで暗くなりたくなかったので、今まで読まないようにしていたのだ。
話は変わるが、最近はやっているエッセイや軽めの文芸は自己肯定感が低いと自認している人や、うつや発達障がいなどがある人の当事者エッセイ的なものが多い。
どこか病や障がい、身体のままならなさを抱えた人が何かをよりどころにしながら生きていくものが多い。生きのびる、逃げのびる、生き抜く、サバイバルといったサブタイトルや主題の捉え方にちょっとぎょっとしてしまう。それだけこの世が生きにくく、生きづらいということだろう。
私はそこまで自分をできないと思ってないし、世の中をどこか舐めている節がある。それは自分がそれだけ健康で元気だからかもしれないし、それだけ恵まれているということかもしれないが。私は叩かれると反発し、今に見とけよと思ってしまう。自分が凹むより怒りの方が大きい。多分世の中の捉え方や向き合い方が全然違うんだと思う。
対象との向き合い方というと、その作家さんは合気道がもとになったある武道をやっているそうだ。私も武道をやっているが私がやっているのは空手だ。しかも実際に叩いたり蹴ったりする実戦の方。
合気道をやったことはないが、一度興味があって見に行ったことがある。知らないうちに体が浮き上がり、気づけば畳の上に寝転がっていた。
攻撃をいなしたりかわしたり、相手の力を利用して投げるといったものが合気道だとすれば、空手はいかに相手の急所を的確について、ダメージを与えるかという技が多い。
だからといって闇雲に暴力を振るうわけでわない。稽古の際も私は白帯なので加減してくれる。技の掛け合いでは一步間違えばケガをするので、一回一回が真剣勝負で、相手の体を借りて稽古するという緊張感があり、自然と敬意を持つ。荒くれ者や強い人がいばっているというものではない。
出版関係の人はやたら身体性が好きだと思うが、身体性というときに体幹とか丹田とか、足さばきとか腰とか、自分の話になることが多い。しかし、単純に人に殴られると痛いし、人を殴ると痛い。ミットで相手の蹴りや突きを受けると、体重の重い人は衝撃があり、若い人は速い。私はそうやって相手とかかわる中で感じる身体性が面白いし、その中で自分が変わっていくことに興味がある。
もう多分、そういう売れている人たちと対象との向き合い方が違うんだろう。なんか前はそこが自分のだめなところだと思っていたけど、人と違うことはむしろ長所と思って前向きに頑張ろうと思った。